好きな人のオススメ

ここのところ何回か、オススメの映画や本をオススメし合う会を開催したり参加したりしている。自分と同年代かそれより下の人たちと交流することが多いのだが、とても良い刺激になるし、後日再開した際に「オススメのこれ観たぜ!」みたいに言ってもらえたりするとこっちも嬉しい。逆も然りである。

 

ネットでオススメされたものを自分でも触れてみるのも良いのだが、上記のように会った本人からオススメを聞くというのもまた良い。というか、その方が自分は楽しい。うまく言語化するのがむずかしいが、伝わり方が全然違う。また、その人自身の人となりに触れることができるというのも良い。自分が行なっている会は小規模なので7人前後だが、それくらいの密度だとその人の性格や価値観に触れるレベルの話ができるのも良い。たまにその人の人生観にまで踏み込めたりすることがあるのでそういう感じになればとっても良い。

 

また、「お前の趣味は理解できないが、お前がそれを好きなことは伝わったぜ」みたいなものが感じられる瞬間も良い。同じ趣味や嗜好性の友達のほうが楽しいことも多いけれど、違う趣味や嗜好性でも性格が良くて長く付き合える友達も沢山いるし。だいたい会に参加してくれているひとたちは性格的にも良い人たちばっかりである。

 

以前バズったツイートで『〜〜が好きな人、嫌いな人、すべてのものに伝われ』みたいな奴があったけれど、すべてのものに伝わる必要なんか全然なくて、1人でも伝わってくれればおれとしてはオーケーだ。それが自分が好きな人だったら尚更良いなと思う。

『ゲット・アウト』

Amazonプライム・ビデオで観た。以下ややネタバレを含む。

 

“ニューヨークに暮らすアフリカ系アメリカ人の写真家クリスは、ある週末に白人の彼女ローズの実家へ招待される。若干の不安とは裏腹に過剰な歓迎を受けるものの、黒人の使用人がいることに妙な違和感を覚える。翌日、亡くなったローズの祖父を讃えるパーティに多くの友人が集まるが、何故か白人ばかり。”

 

主人公クリスは自分の肌の色にコンプレックスを持っていて、ローズの家族に受け入れられるか不安に思っている。ローズはそんなの杞憂よと言って明るく励ますのだが、実際にローズの実家に行くとそういった差別意識を刺激される会話がチクチクと交わされる。そういった冒頭だったので、人種問題をテーマにした暗めの話かと思い観ていた(過去形)。だが、色んな意味で期待を裏切ってくる面白い映画だ。サスペンス?ホラー?そんな感じである。思えば、最初の実家に向かうドライブのシーンであるアクシデントが発生するのだが、見終わってみればそれがサインだったのかもしれない。

 

世界観の作り方がとても独特で引き込まれる。こいつ狂ってるなーと思うキャラの狂い具合というか表情が凄くいい。とにかくキャラの個性が光っている。特に主人公の親友の黒人がとても良い味を出している。キューブリックとかヒッチコック的な絵作りを意識しているようで、そんな雰囲気がそれっぽく出ているのも耽美感があってよい。

 

教訓とか学びとかは特に無いように思える映画なのだが、そういう割り切りがあるのが逆に潔くて良いと思った。計算されたヘンテコさ、勢いと引き込む力があってつい最後まで観てしまう面白さがあった。ジャンルを書く事がネタバレになってしまうような特殊な映画なので、気になったらぜひ観てほしい。

 

 

ゲット・アウト(吹替版)

ゲット・アウト(吹替版)

 

 

 

 

『昨夜のカレー、明日のパン』

若くして亡くなった一樹の元妻であるテツコは、夫の父と何故かそのまま何年も暮らしていた。一樹をめぐるその身内、友達が、彼の不在を少しづつ受け入れ変わってゆく。

一樹の妻のテツコから始まり、一樹の友達、親戚、母、父など、それぞれ視点が変わって展開される群像劇となっている。時系列が近い同士の話などでは、ある人物の行動が、別の人物の話で出てきたりする構造が面白い。

出てくる登場人物はすべてなんとなく間の抜けた天然ボケのような人たちで、それでいてみんないい人たちなのが癒される。基本的に悪者は出てこない。漫画でいうとこうの史代さんのような空気感。つまり、非常に自分好みな小説だった。

主人公のテツコは、義父とずっと暮らしているが、別に変な関係ではないのが、却ってヘンテコな感じだ。けれどもそれは、夫が不在でいながら夫がいた頃の生活を変えたくないという無意識の現れにも思える。居なくなってしまった人がいない生活は、もう過去と違ったものになっているはずだ。けれどもそれを受け入れることが怖くて今の状況を変えられずにいる。それは過去に縛られているようにも思えるし、同時にとても大切にしているようにも思えて切ない。その動かないままの現在から、なんとなく何かがきっかけとなり、気づいて、新しい人生を主体的に一歩踏み出す登場人物たちがとても愛おしく身近に感じられる。

2章からかなり涙腺を攻めにくるのでヤバい。というか全編を通してヤバい。外出先では読めない。泣きたい人は読んでほしい。(と書いたが、マイマザーに貸して読んだら『それほど泣ける話でもなかった』との感想をいただいたので、人それぞれということで。)

 

 

 

 

 

咎めるか否かの基準

最近、ファストフード店とかファミレスとかで、自分で持ってきたものを食べたり飲んだりしている人を稀に見かける。今日はマクドナルドで向かいのお姉さんがペリエを飲んでいたし、この前はタリーズで隣のお兄さんがたけのこの里を食べていた。たまたま今そういうアンテナが自分に立っているだけで、昔からけっこういたのかもしれない。よくよく考えてみれば特に禁止とか書いているわけではない。改めて考えるとなんか微妙な事柄ではある。

 


自分はやらない。ただ、別に赤の他人がやっていることを咎めることもしない。面倒なことになったら嫌だし。友人がやっていたら咎めるかもしれない。前付き合っていた子がやろうとしていたことがあり、咎めたことはある。はて、そういう基準はどこにあるんだろうとふと考えたときに、マイケル・サンデルの本を思い出した。

 


本当に昔に読んだきりなのでうろ覚えだが、『これからの正義の話をしよう』のエピソード(だったと思う)。有名なトロッコ問題で、1人が犠牲になるか5人が犠牲になるかみたいな話で、超合理的に考えれば1人が犠牲になるのを選ぶ(?)が、その1人が自分の親友だったとしたら、みたいな。その本の結びが、今の時代は合理的かとか宗教観とか価値観とかの基準に加えて、感覚的なコミュニティ(友達とか家族、知人関係)の一員であるかどうかということが基準になるみたいなことが書いてあった。こうやって書いてみたらやはりだいぶうろ覚えなのでまた読み返してみたい。

 


自分は、悪いことをしている奴が仮にいたとして、そいつが自分(おれ)の人生に関わらなければ別にいいんじゃないのという考えだ。けれども、そいつが自分の友達に害を加えようとしたら全力で止めたいと思う。逆もしかりで、良いことや利益になることだったら優先的に自分の家族や友達に伝えたいとも思う。

 


なんかでも、書いてみると別段普通のことだなと思った。

 

 

1分で話す

少し前になるが、会社の研修で、1分で話すという練習をした。本題に入る前の導入という感じで、アイスブレイクに近い。30人くらいの人が次々と同じテーマで話すのだが、みんなそれぞれ導入のトークが違って面白かった。いわゆる『話が上手い』ような人は1分でもコンパクトにまとめたり、興味を惹く工夫をしている。また、ベテランの人ほどそういった経験があるためか落ち着いてもいる。

 

 


実際にやってみると、頭をフル回転させて話さなければいけないなと感じた。コンパクトで、印象に残り、次に繋げつつ、かつ売り込み過ぎない…。こういったとっさの『思考の瞬発力』というのは現場でも要求されるから、社内で練習できる機会があるのはよかったと思う。

 

 


1分というのは、喋ってみるとあっという間なのだが聞く側だとそこそこ長いかな?と感じた。継ぎ言葉や脱線も、短い時間という制約の中だと余計に気になってしまう。たった1分ですらそうなのだから、それ以上の長さの話を聞き続けることは思いのほか大変だということだ。だから喋り続けるだけでなく、適度に質問を混ぜながら対話形式にするなどそういった工夫も必要だなと思った。

 

 

『スリー・ビルボード』

ミズーリ州の片田舎でレイプ殺人が起こる。犯人が見つからないまま半年以上が経過し、その母親が看板にとある広告を掲出する。3枚の看板には大きく、『RAPED WHILE DYING』『AND STILL NO ARRESTS?』『HOW COME, CHIEF WILLDOUGHBY?』と書かれており、警察を非難する内容のものだった。警察署長は被害者の母親に説得を試みるが...

あさひなぐ』の作者がツイートしていたのを見て気になっていた作品。TSUTAYAで借りて観た。

話のきっかけがそもそも重いが、展開もまた輪をかけて重い。わりと気が滅入る。のだが、とても面白かった。ややクリントイーストウッドの『ミスティックリバー』を彷彿させる。人生思い通りにいかねーなあという感じ。この手の話は自分的にはすごく好きである。

ミズーリがどういう地域なのかは浅学のため分からないが、片田舎のダサい(失礼)感じがすごく出ていて、そういう文化を感じられるのもよかった。黒人は差別され、警官は暴力や暴言を平気で振るう。服装のセンスもどこかダサいかんじ。

被害者の母親が起こした行動がきっかけになりにわかに町が騒ぎ出す。怒りや憤りを向けられた登場人物たちもまた、憤りや怒りに駆られて行動する。その行動が思いも寄らぬ形で連鎖していくのが重いのだが面白い。登場人物の行動すべてにきっかけがあり、そのきっかけ自体はとても些細だ。近くにいた人がポロっと零した呟きのようなものが、とんでもない行動と結果を引き起こす事もある。特に、最初の事件の直接のきっかけになったのは、母親と娘の喧嘩である(ことが後に明らかになる)。つらい。

事件そのものを引き起こしたレイプ犯を除いて、善悪はっきりと分けることが難しい人間関係が描かれているのも好きだ。例えば被害者の母親が怒りの矛先を向ける警察署長は、ずっとレイプ犯の捜査を続けており家族愛に満ちた人格者である。また、被害者の母親自身もろくでもない面をたびたび見せる。そういった人の二面性に触れることができ、人間ってそういうもんだよなと妙に共感させられる。

最初から最後まで重いし誰も幸せにならないような話なんだけれど、それでも悲しみや怒りの渦中にいる人々がちょっとだけ見せる優しさや慈悲や赦すということ。重いけれど閉塞的でもなく、どこか救いがある空気感。そうやって人を信じたくなるような話だった。

 

 

記憶について

ベイグラントストーリー』という少し古いPSのゲームがある。センスの塊でできたようなゲームで大好きなのだが、話も面白い。『記憶』がテーマの一つになっている。主人公のアシュレイは、妻子を野党に殺されてスパイエージェント(厳密には違うがわかりやすいようにこう書く)になったのだが、実はその『妻子を野党に殺された』という記憶自体が今の所属する機関に植え付けられたニセの記憶ではないか?ということが明らかになっていくというものだ。そこにさらに記憶操作をする能力者が出てきたりして本人の記憶は混迷の一途を辿る。野党に殺されたのは本当に妻子だったのか?実は自分が任務中に名も知らない別の妻子を殺したことを混同しているのか?そもそもオレに妻子は居たのか?とアシュレイは悩みながらも任務を遂行する。ゲームとしては今プレイすると少々怠いシステムなのだが、記憶をめぐる決着のつけ方が素晴らしく、ぜひ話を追ってほしい名作だと思う。

 

記憶というのは忘れるものだし、本人の都合の良いように変わってもいく。この、変わっていくというのが特に厄介だと思う。変わっていたこと自体に気づかないというのは怖ろしい。最近、両親を含め高齢の人たちと付き合うことが多いのだが、短期・長期記憶の忘却や認知症などを見ていると、やっぱり辛いなと思うし、それを認識させるのがとても難しい。言った言わないみたいなことにもなってしまうし、トラブルの元にもなる。

 

こういった、高齢や病気からくる記憶障害(あえて障害と書くが)の例を引くまでもなく、やはり記憶というのは信じ切ってはいけないという前提に立って生活したほうがいいなと個人的には思う。日記を書く、メモを取る、チェックリストを使う、などなど。今はテクノロジーが進化していてアナログでもデジタルでもインプットが簡単なデバイスが沢山出ているし。目標設定などにしても同様で、やりたいこと、やるべきことは脳やら魂やらに従って決めるけど、その決めたことを、ともすれば変わってしまう脳やら魂に置いておかないで、変わらないデバイスに記録しておく。