主体的に参加する

仕事柄、色々な会に誘われることが多い。中には怪しげな会もあったりするが、そこは『命までは取られない』の精神で参加する。また、ボランティアやヘルプなども時間が許す限り手伝いに行くようにしている。それは100%善意からというわけではなく、何かしらの見返りやメリットを少なからず期待もしている。人間だもの。神に仕えるプッチ神父でさえ『無償の愛というものは無い。無償の愛とは、天国に行くための見返りだからだ。』と言っていたではないか。

 

もう2年ほど前になるが、前職の関連会社の役員さんが、忘年会だか新年会だかですごく良い事を言っていたのを思い出した。曰く、「『旅行に行く』ということそれ自体はとても良いことだ。その地域の文化や風土や人を知ることで経験になる。でもね、それはあたかも旅行先が自分に何かしら与えてくれることを期待しているという、受け身の意識があるかもしれない。逆に、自分が与えにいく、いっそ世界を変えてやるくらいの勢いで『旅行に行く』のもたまにはいいんじゃないか。」(著名な人の言葉の引用ということだったかもしれなかったが忘れてしまった。知っていたらだれか教えてください。)

 

旅行だけではなく、何かしらの会やイベントに参加する際には上に書いたような意識を片隅に持ちたいなと思う。与えにいくというと、なんかハードルが高くて難しいかもしれない。そういう時には、発想を変える。具体的には、目的を持って参加するようにする。どんな小さなことでもいいと思う。主催者に笑顔で挨拶する、知らない人と話す、自分の身の回りで起こった経験を話題として提供する、後片付けの手伝いをする、など。毎回できているかはわからないけれど。ただ、そうやって、自分が行動することで何かしらポジティブな影響を与えようと考える。そういった意識をほんの少しでも持ち続けることで、様々な物事に主体的に参加するという姿勢に繋がるし、結果的に得るものも多かったりする。

介護現場 is battlefield

友達が介護業界で働いており、デイホームのボランティアに行ってきた。今までも半日や特定の人を見守るという程度のボランティアをやったことはあったが、今日はフルタイムで入った。8時過ぎ〜18時頃までだ。

 

素人のおれが任される業務としては認知症の人の見守りがメインだ。重度の認知症かつ高齢の人だと、目を離した隙に転倒して大事故になってしまうことがある。そのため常時目を光らせておき、立ち上がろうとしたら補助をしたり誘導して座らせたりする。なかなか忍耐力が試される仕事である。かなり認知症が進んでいる人だったので話すこともほとんどなかったが、なにか手を草むしりのようにずっと動かしていた。

 

そして、もう一つ大きな仕事としては、利用者さんとのコミュニケーション。これが重要だ。黙っていて静かになると寝てしまう利用者さんもいるのだが、これは良くないとされる。何故なら、昼に寝てしまうと利用者さんが帰ったあと自宅で眠らなくなってしまう可能性があるからだ。人によるが、深夜徘徊などしてしまったら大変だ。そのため眠くならないよう、積極的に話題を提供したり折り紙、歌を歌ったりする。よく喋る利用者さんがいたが、1日で同じ話題を7回くらいした。ハキハキ喋る方なので頭もはっきりしているのだろうと思ったら10分前の同じ話題が出てきたり、ちょっと席を外して戻ってくるとまた自己紹介をしたりする。

 

その他、調理補助や買い出し、洗い物、掃除などをやった。慣れてないことも影響しているだろうが1日現場を経験してヘトヘトになった。介護業界は給与水準が低いと言われているが(悲しいことに実際そうなのだが)、実際にその現場で働いてみるとそれが納得できないくらい全方面にスキルが必要な仕事だ。コミュニケーションスキル、ホスピタリティ、安全への配慮、正確性、栄養面etc…。介護は戦場だ。同時に、絶対に今もこの先ますます重要になる業界だとヒシと感じた。他人事ではない。

 

改めて思ったことや感じた事を別エントリで書くかもしれない。

アイディアを出す姿勢

マーケティング戦略の話を先輩に(どうでもいいが、このブログにはよく先輩が登場するが、記事に登場する先輩はすべて同一人物というわけではない)したときに、これならこうすればもっと良いんじゃないか、自分は過去こういうことをやったからこういうマーケットがあるよ、どういうところにターゲットとなる人が集まるだろう、みたいな話になった。そうしたあと、OYNMKさんはどう?と聞かれて、その先輩の発想を受けて、そういえばこういう所に沢山特定層が集まっていますね、とアイディアが浮かび、それいいね!そういえば私もそこの話題をこの前聞いたよ、という話になった。雑談だがお互い沢山アイディアを言い合って繋がって盛り上がった。(仕事上の話なのでどうにも抽象的な書き方になってしまい申し訳ない)

 

具体的なマーケットやターゲットを想像してアイディアを考える、アイディアを話してみる、そうすると自分の経験や知識から新しい繋がりを突如発見できたりすることがある。自分は自分のアイディアにあまり自信がないことが多く、こんなアイディア聞いたことあるだろうし、などと思ってしまいがちだ。でも、例えもうあるアイディアだとしても、それを伝えれば相手の頭の中にある別の発想にインスピレーションするかもしれない。昨日書いたように、受け止めるのはあくまで相手だ。

 

1人でアイディアを考えるより、何人かで考えたほうがはるかに沢山のインスピレーションが湧く。その人が出した発想に、そう至るまでの考え方だったり経験だったり知識だったり人となりを思うと、おもしろいなぁと思うことが多い。だから人と話すのは楽しい。

迷惑かどうかは受け手が決める

最近、かなり面倒な出来事が発生してしまい正直相当参った。たまたまその日の昼、会社の先輩と夕方まで一緒に移動する機会があったのだが、暗いおれの顔を見て、何かあったのかと聞いてくれた。その際に色々と事情を話し相談させてもらった。その先輩本人には直接関係のない話にもかかわらず、しっかりと話を聞いてくれてた。それだけではなく、関係者へヘルプをお願いする事まで買って出てくれた。とてもありがたい事だ。迷惑をお掛けしてすみませんと謝ったら、自分は全然迷惑と思っていないから気にするなと言ってくれた。

 

自分は割と抱え込む性質があり、なんでも自分1人で解決しようとする傾向が強い。その方が自分的には楽だし、誰かに相談したって迷惑なだけだ。そう思っていたが、最近は認識が変わりつつある。今回の例のように、解決できるかできないかに関わらず、誰かに話すことで抱え込んでいるよりずっと気が楽になるになることが一つ。もう一つは、迷惑かどうかは相手が決めることだからおれがそんなことを気にする必要はないということだ。おれぐらいの年齢になれば相手だって大人だ。大人をみくびってはいけない。相談する相手を信じることだ。おれが勝手に相手のキャパを判断するなということだ。

 

何より、もし自分が相談される立場だったなら、相談されるということは結構うれしいものだ。それは、相手が自分を信じてくれていると感じられるからだと思う。

不安が現れてくるとき

業界の協会認定資格試験があった。うちの会社はかなり資格にこだわりというかプレッシャーを与えてくるところがある。BOSSも、こんなん受かって当然だぞてめーらというテイだ。実際、資格取得は昇格の条件の1つである。それなのに受験料は自費。ナンデ?慈悲はない。


2ヶ月前にテキストを渡されたにも関わらず、ページを開き始めたのは一週間前。追い込みがかかっていることもあり、時間を割くことが物理的にも精神的にも難しい時期だった。そのためものすごい突貫で勉強をして試験に臨むことになった。同僚と試験会場に向かう途中では聞かれてもいないのに「本当に全然勉強していないんです」と言い訳を放つほどであった。社会人の「全然勉強していない」はマジで全然勉強していないことを示す。ここまで不安な状態で試験に臨んだことはあっただろうか、いやない。かなりドキドキしながらマークシートに印をつけた。

 


試験が終わったのが夕方前、その日の夜にはお客さんとの打ち合わせがあった。お客さんを待っている間に試験の自己採点をした。結果はなんとか合格ラインを越えていた(ドヤァ)。1試験でこれほどまでに追い詰まったことはなかった。一時は蒼天航路馬超に追いかけられていたときの曹操くらい焦ったが、とりあえずはホッとした。


そのホッとした次の瞬間に、物凄い不安に襲われた。その不安は何かというと、数十分後に待っているお客さんとの打ち合わせである。一山去った後のスッキリした頭で考えてみれば、かなり大きい打ち合わせだ。もちろんちゃんと事前準備等は済ませてあるが、それでもプレッシャーが押し寄せてきた。


一つの不安に直面していると、ほかの不安は(それがとても大きなものであれ)もやっとした曖昧なものになっている。けれども、一つの不安が解消すると、次に直面すべき不安はなんのもやもなくハッキリ、ずーんと自分の面前に顕れてくる。そんなことを感じた1日だった(ちなみにその打ち合わせは無事良い方向に終わりました)。

30日間休まずブログを書いてみた感想など

8/12からブログを再開した。きっかけというほどのものは無かったが、ツイッターみたいな短文ではなく纏まった情報を発信したかったこと。また、どうせなら習慣になるくらいまで続けてみたいと思ったこと。あとは、自分との小さな約束を作ってそれを達成したかったこと。そういえばマッドカッツの21日間チャレンジとかいう動画があったよなと思い、よしとりあえず21日間だと始めてみることにした。それくらいなら続くだろうという魂胆だったが、始めて数日後にその動画を見返したら、21日間ではなくて30日間チャレンジだった。それでもなんとか30日間継続することができてホッとした。

 

基本的にはその日に書くネタを考えて投稿する、書き溜めないスタイルにした。ほぼその当日思案当日投稿ができたが、うち2日くらいは、あまりにネタが浮かばなかったので前日に書いてボツにしたものを推敲したものになった。内容としては、読んでくれた人が何かしら1ミリグラムでも得るものがあるといいなと思って書いた。あと、ネガティブなことは書かないようにした。

 

記事の長さは、だいたい800字前後になっていると思う。原稿用紙2枚分といったところか。ちなみにはてなブログのアプリを使うと文字数がカウントされる。あまり意識しなくても、さて投稿するかと一息ついたときにはだいたいそれくらいの文字数になっていた。一方、1記事にかけた時間は割と多い。1時間やそれ以上掛かっているものもある。ネタが定まってくれば早いのだが、インスピレーションが降ってくるまでに時間が掛かっている。24時間中1時間を越えてくると、けっこう1日の時間をかけてしまっているなと思う。書き慣れてくればもっと短くする事ができると思っていたのだが、書き続けていてもあまり変わらなかった。

 

本当は映画や本などの作品評をもっと書きたかった、書けると思ったのだが、自分にはけっこう難しいと書いてみてわかった。書き始めてもなんか違うなと思ってボツにしたものもいくつかある。人気のある映画評や、ツイッターで何百RTされるような文章は書けないなと実感する。自分の文章表現がへたっぴなんだと思う。また、なんというか、盛ることに抵抗感がある。ピーターラビットの映画をまるでアウトレイジみたいだと上手に盛れるセンスはおれには無い。とはいえおススメしたい映画は多いので、またちょくちょく自分の書けるスタイルで書くと思う。本の感想は、単体でエントリーを起こすのはきついので月にまとめて1エントリーで書こうかなと思う。

 

自分はクリエイティブな仕事に半ば憧憬のような感情を持っていて、その道に進まなかった、といえば聞こえはいいけれど、実際には進めなかったので、コンテンツを消費するだけではなく、それに関わるなんらかの価値を生み出すような活動をしてみたいと思っていた。そういった憧憬の残滓が未だ自分の中にあり、ブログを書きたい意欲に繋がっているのだと思う。

命までは取られない

前職のある先輩の口癖が「宇宙レベルで考えろ」だった。要は、宇宙レベルで考えたら、今の自分が抱えている悩みなどちっぽけなものだ。まして何か決断をしたとしても、その影響は宇宙レベルで考えたらまたちっぽけなものだ。だからどうだ、ということまでその先輩は言わなかったが、要は悩んでいるくらいならやりたいことをやった方がいいということだとおれは解釈した。

 


その後、ちょっと話題になった『アイデア大全』だか『問題解決大全』のどちらかだったと思うが、読んだときに同じようなことが書いてあった。確か、『その問題は百年後も続いているか?』と極端なスケールで考えるフレームワークだったと思う。それを見たとき、その以前先輩が言っていたその口癖「宇宙レベルで考えろ」とリンクした。

 


ツイッターで、もう随分姿を見ていないが(元気にしておられると良いと願うが)伯爵さんが『バーチャロンに負けたとしても命までは取られない。』ということを度々ネタでつぶやいていた。そのフレーズがおれはとても好きで座右の銘として使わせてもらっている。ゲームだろうと試合だろうと仕事だろうと人生だろうと、失敗してもめったに命までは取られない。もちろん命に関わる決断だってあるけれど、それはめったなことだ。それは上で書いた『宇宙レベルで考えろ』となんとなく通ずる気がする。

 


最近わりと正体の知れない(だが興味を惹く)会合やセミナーにも積極的に参加したりしている。単身で。たしかに何が起こるかわからずちょっと怖い気持ちもあるが、せいぜい売り込みをされたり、怪しい契約書にサインさせられるくらいのものだろう。最悪の場合でも『命までは取られない』と思うとだいぶ気楽にチャレンジできたりする。