何もしないという事

子供の頃、家にディズニーの『くまのプーさん』のレーザーディスクがあり、よく観た。これともう一つくらいしか家にはアニメが無かったので、繰り返し繰り返し、LDに擦り切れるという概念はないけれど、それくらいは観たように思う。


作中の最後で、プーさんと人間の子供のクリストファーロビンが別れるシーンがある。学校に行くから分かれなくてはいけなくて、クリストファーはプーさんに、いつも何もしないという事をしたいよねと言い、プーさんもそれに共感するのだけれど、その後にクリストファーは、もうぼくはきっと何もしないという事が出来なくなるんだ、そう言う。続けてプーさんに、ぼくが居なくなってもプーさんにはここで何もしないという事をずっとしていて欲しい、そう伝えて別れ、物語は終わる。ある意味でピーターパン世界からの別れというか、永遠に終わらないバカンスからの別れというか、メルヘンからリアルへの移行というか、そういったメタファのようなものなのだろう。


その頃は終わりがとても悲しいなとただ思うだけだったけれど、今考えてみると、プーさんの言う所の何もしないという事は、行動的な意味で何もしないだけでなく、何についての事も考えないということでもあるのだろうと思う。そして何もしないという事ができなくなるということは、つまりひとが社会性を帯びるということなのだろうと思う。社会に参加した時点で、無垢な振る舞いはできなくなり、行動や思考に責任というものが常に付帯するようになる。


大人になると本当に何もしないという事が出来なくなる。無職だったころ、行動的に何もしないという日は割とそこそこあったけれど、色々やらなければいけないこと、明日やる予定のこと、将来のこと、親のことなど、当たり前なのだが色々と考えない日は無かった。プーさんで言う所の何もしないという事は無かったのだと思う。そしてクリストファーが言うように、これから今後何もしないという事が出来る日はきっとやってこないのだろうと思う。それを良く無い事だとは思わないけれど。


無職関連だからプーさんの話を書いたというわけではないです。