容れ物と表現のこと

夜半に雨が降ったようで、朝外に出てみると路面が濡れていた。自転車で走りにゆくか非常に迷うコンディション。


メモ帳は小さいからこそ、メモ書き程度のことしか書けず、メモを書きとどめるという機能としては最適なツールとなっている。メモをA3の画用紙に書こうと思っても、なかなかうまくいかないだろうと思う。ツイッターは140文字という制限があるからこそ、大上段に構えた長文ではなく、感情や短くまとめられそうな文章を書き表すことに向く。メモ帳ばかり使っていれば、おそらくメモを書くことに長じるようになってゆき、ツイッターをたくさん書けば書くほど、140文字以内で表現することに長じるようになってゆく。


ここのところ、iPhoneツイッターをやる機会が増えたせいか、長い文章を書くということから遠ざかり、長文を書かなくなっていた。Bluetoothのキーボードを持ち歩いているのだが、それにしてもiPadにくらべiPhoneの画面では長文がひどく書きづらい。それはなにより、画面の小ささがそういう意識にさせる。スマートフォンで書くことといえばメールかツイッターの2択くらいではないだろうかと思う。


たとえばiPadくらい大きい画面であれば、入力した文章の相当の量が一画面の中に収まるため、全体を俯瞰して構成を眺めることができるのだけれど、iPhoneではそうもいかない。特に自分は、頭のなかにあることを一気呵成に書くよりも、ちびちびと訂正加筆を繰り返すタイプなので、全体が俯瞰できないというのは、なおさらストレスフルになる。だから通勤時間が今一時間くらいあるけれども、そういったまとまった時間があってもiPhoneの画面の小ささをみるにつけ、長文を書こうという気持ちがなかなか起きない。


ダイエットをするには、小さい器を買ってきてそれに盛るのがいいと言われる。自分自身が頭の中で思っている以上に、おそらく入れ物の影響力というものは強く、その入れ物を適切に選ぶことで表現の可能性はかなり上下するのではないかというふうに思う。