背景を教えてから作業を教えるという事

先週の祝日に休日出勤をしたので、今日は平日だけれど代休を貰った。前日の木曜日は少し夜更かしをして、今日は少し遅めに起きた。半年ほど前に合格した資格試験の合格証を貰っていなかったので、千葉の船橋まで合格証を取りに行き、帰りがけに自転車屋に立ち寄り、うまく空気が入らないホイールの修理をお願いした。日曜日には大会になので、土曜日中に治してくれるとのことだった。

少し前に同じ部署にやってきた新人が、少ししたらこの会社を出て行く事になった。色々と具体的な事情はここではさておくことにするけれど、この会社でやっていけるか不安が続いていた事と、運良く知り合いから声をかけられた事がちょうどよく重なったようで、来月からは居なくなる。もともと少ないウチの部署で、ようやく人が増えたと安堵した矢先の出来事であり、その新人を前提とした部署の拡張も視野に入れていたものだから、計算が狂った、また仕切り直しだなと小ボスはぼくに言った。そうですね、残念ですねとぼくは答えた。そういうわけで、来月は業務量が増える事が確定的に明らかで今からほんのりと気が重い。

その新人はぼくが最初から業務を教えていた。社会人になってからというもの、だれかに仕事を教えた事はそれなりにあったけれど、仕事の量が(今までいた会社と比べて)とんでもなく多い今の会社で、とんでもなく多い量の仕事を教える経験は初めてだったものだから、それだけでもなかなか良い経験になったなと思う。

小ボスがぼくに仕事を教えてくれたときは、とにかくその瞬間の作業ばかりを命じられて、意味さえ分からず電話を掛けたりメールを書いたり資料を作ったりした。その電話やメールや資料がどこの誰にとって必要なのかもその瞬間は分からない事が多かった。小ボスは、いいからとにかく目の前の事をやれ、いずれ分かる時が来るから、といったスタンスだった。今は点のままだけれどいつかは線になるから、というのが口癖で、半年くらいたった今、ある仕事で、ほら点が線になっただろう、としたり顔で言われた。そうですねとぼくは答えた。

そういった教え方は時間の節約にこそなるかもしれないけれど、嫌だったので、ぼくがその新人に仕事を教えた時は、少し時間がかかってもその仕事の背景から教える事にした。この資料はなんのために作るのか、この資料に関わる人は誰と誰でどこの人かとか、それから作業の方法を教えるという事をした。すべての業務をそうやって教えたとは言えなくて、差し迫った物事については、ごめんこれちょっとやっといて、と言って投げ気味に振ってしまったこともほんのちょっと、まぁ少々、あったと思う。

この手法は仕事を振る側にとってもなかなかしんどいもので、たとえば、当たり前だけれど教えている最中は完全に教える側と教えられる側の作業が止まる。特に作業に関わる背景なんかを教える時はそうである。そういった説明は10分や5分、場合によっては2分ほどで終わるときさえあるけれど、それでも自分が焦っている時はこの『背景を教えてから作業させる』の『背景を教えてから』というプロセスをどうしても省略したい衝動に駆られる。長期的に考えれば『背景を教えてから作業させる』ほうが最終的な効率は良くなる。そう認識していてさえ、とにかく目の前の作業をこなさなければいけない事態に直面しているとき、その一日においては『背景を教えてから』を省略したほうが効率がよいから、そこで少し迷う。

要するに短期的な効用か長期的な効用かという事なのだけれど、算数だって答えだけ教えていてはいつまでたっても法則が分からないままだろう。しかしながら困ったことに、この会社の上司はそういうふうに算数の答えだけ教えるように仕事を投げる人が多い。