知らない誰かを応援する事(1年前の同じ大会で その続き)

自分の番手が終わり、メンバーにアンカーを託して後は制限時間まで身体を休めるだけになった。上がり切った息を整え、汗が冷えないように上着を着て、攣りそうになっている脚を揉みほぐしながら、コースのすぐ近くでサーキットを走る沢山の自転車を眺めていた。そのうち時間は迫り、最後の1分、30秒とアナウンスされる。残り10秒になってカウントダウンが始まった。

耐久レースは制限時間内に何週走ったかを競うレースだから、時間内に計測ポイントを過ぎれば1周多くカウントされる。ホームストレートの先に待ち構えるそのポイント目がけて、残るわずかな力を振り絞り多くのライダーがスプリントを始める。ぼくらのメンバーは1分ほど前にポイントを通過したばかりで、一周するのには2km以上もあるものだから、そのカウントダウンが始まったときぼくらの視界には居なかった。10秒のカウントダウンが始まると、レースを観ている観客の多くが声を揃えてカウントに加わった。ぼくも自然とそのカウントダウンに声を合わせて加わった。カウントを告げる大きな声で、心無しか目の前を走るライダーの速度が上がったような気がして、どこの誰だか分からない目の前を走るライダーに、頑張れ、間に合え、そう思いながらカウントを続けた。最後のゼロを数え終わり、観客は大きな拍手をし、ぼくもそれに加わった。

大きな拍手を聞きながら、何かに向かって歩み、走る誰かを観るとき、人は自然とその誰かを応援する事が出来るのだと、漠然とそう思った。周りが応援しているから流されてするというのではなく、自然と自分自身の内部から出てくる感情に従って応援をする事が出来るのだと、そう思った。今の自分には何もないけれど、知らない誰かを応援する気持ちは残っているのだと、そう思い、それは何故だかとても嬉しい気分がした。

それまでの積み重ねがあろうとも無かろうとも、今その瞬間に懸命にペダルを踏み込もうとするその意思を、それが知っている人でも知らない誰かであっても、応援しようという気持ちが生まれる。そしてきっと、自分はそういった応援の受け手にもなれるのだろうと思う。ぼくがそのホームストレートにいるとして、まさにポイントを通過できるか出来ないかというとき、誰かがぼくを応援してくれるだろうと思う。そう思えるときには、きっとぼくや他の誰かは孤独じゃないんだろうと思う。それを信じることはきっととても貴い事だ。

それがもう1つの、ぼくが1年前に同じ大会に出たときに気付いた事で、この2つの事は自分の中での大きな発見だったからこの日のことはとても強く覚えているのだ。