ストレスと愚痴の事

少し前に読んだネットの、心療内科のコラムに、『ストレスのキャパシティは実は人によってそれほど変わりはなく、ストレスコントロールが上手いひとはちょくちょく小出しに発散をしている』というものがあった。医者が言っているから、ということでもなく、自分の経験などから考えても率直にそういうのはあるように思う。

個人的な経験でいうと、前の職場ではそういった小出しに発散できる環境がなかった。職場以外でそういう場があればよかったのかなと思う。ただ、自分には家族や友達も少しはいるけれど、職場の愚痴をあまり言いたくない(自分にとっても相手にとってもあまり建設的な会話にならない)という思いもあり、Twitterでもあまり職場とは関係ないことを書き続け、結果としては潰れた。

ストレスを小出しに発散する、あるいは出来る環境というのは、ボクシングの試合のようなものではないかと想像する。3分間は強力な殴り合いが発生しても、その後に小休憩が入るから何ラウンドも長いこと戦う事が出来る。いっぽうそうでない環境というのは時間無制限の一本勝負のようなものだと想像する。休みなく戦い続ける事は、その戦いがそれほどヘヴィなものでなくても、おそらく長くは続けられない。

ストレスコントロールが上手い人は、まぁよく創作でもあるような、居酒屋でぷはーと一杯やりながら、あるいは家で親友に突然電話をかけ、そういった愚痴を言い合い発散するのだろうと想像する。それもおそらく、僕が考えているよりもはるかに頻繁にそうしているのだろう。


相手の話を聞く際には、『受容』の姿勢がもっとも適切であるとされる。『反対意見』『否定』はもとより『対案』も『同意』も良くないとされている。受容というのはする側にとっては難しいことのように思えるけれど、やってみればおそらくそれ程でもなく、きっとこれまで家族や友人相手にもやってきたことがあるような事だろうと思う。

ぼく個人としては、愚痴を聞いて欲しいというよりは割と具体的な解決法方が欲しくて人と相談したいなと考えるのだけれど、それは行動心理学的にいうところの『未来の想像のズレ』が多分ある。つまり、解決可能な意見を自分では求めていたつもりだったのに、いざ愚痴として話してみるとただ受容して欲しかっただけ、という具合だ。これは本当によくあるように思う。

そして、愚痴や相談を話す側は多分自分が想像するよりはるかに自分が言った事を覚えているし、だから受容してくれた人に大小なりとも感謝をするし、意識的にせよ無意識にせよ、有形無形のなんらかのしるしを返す。

人生相談のラジオやらテレビやらが無くならないのは、誰でもいいから聞いてくれる場というのが人には必要であることの証左であるように思う。誰でもいいからというよりも、むしろ場合によっては、特定の誰かではない誰かに、聞いてほしい時もあるのではないかと思う。