客観性と外部からの刺激の事

お盆の後半、突如頂いた1日の夏季休暇。体調も芳しく無いので遠出はやめて、朝ちょっと運動し、美容院に行き、ミスドで一休み。日差しは相変わらず強く、午後はダラダラと過ごそうかと考える。


自分自身で養う事の出来る客観性というのは、もちろん訓練などである程度は向上するのだろうけれど(どういった訓練をすれば良いのかは分からないけれど)、基本的には持って生まれた才能みたいなものが大きいのではないかと思う。頭の中でよく考え事をしているから客観性が高い、という事には多分ならない(それに、よく考え事をしている、という自己認識も、他の人が普段どれだけの考え事をしているか分からない状況でどうしてそう言えるだろう)。

自分の事はなかなか気付かないけれど他人の事は気付きやすい、というのは当たり前だけれどやっぱりある。他人のあまり宜しく無い振る舞いを遠目に観ていて、そういえば自分もそういうことしているな、気をつけよう、と考えを改める事は多い。また自分の振る舞いを注意されても、最初はあんまりピンと来なかったりするけれど、あとで同じような事を他の人がしているのを見たとき、「そういうことか…」と反省する事も多い(なかなかにクズい)。客観性をいくら高めても、結局はそういった外部からの刺激のほうがダイレクトに受け止められる。それは『百聞は一見に如かず』といったところだろうか。

自己の客観性から来たものにしろ、外部からの注意やアドバイスにしろ、それらを受けとめて行動を変化させたとき、そのアウトプットが目指すものであるならば、きっかけなんてどっちでも良いだろう。スピードとコストだけ考えれば、前者後者のほうが効率は良い。だから、手っ取り早く振る舞いを変えたければ、外部からの刺激を受けやすい環境にいるようにして、宜しく無い振る舞いをどんどん注意して貰うようにすればよいのかもしれない。

とはいえ、そうやって変わって行った振る舞いが、自分自身が納得出来る、好きな自分自身であるかどうかは常に自問する必要はあるふうに思う。