記憶について

ベイグラントストーリー』という少し古いPSのゲームがある。センスの塊でできたようなゲームで大好きなのだが、話も面白い。『記憶』がテーマの一つになっている。主人公のアシュレイは、妻子を野党に殺されてスパイエージェント(厳密には違うがわかりやすいようにこう書く)になったのだが、実はその『妻子を野党に殺された』という記憶自体が今の所属する機関に植え付けられたニセの記憶ではないか?ということが明らかになっていくというものだ。そこにさらに記憶操作をする能力者が出てきたりして本人の記憶は混迷の一途を辿る。野党に殺されたのは本当に妻子だったのか?実は自分が任務中に名も知らない別の妻子を殺したことを混同しているのか?そもそもオレに妻子は居たのか?とアシュレイは悩みながらも任務を遂行する。ゲームとしては今プレイすると少々怠いシステムなのだが、記憶をめぐる決着のつけ方が素晴らしく、ぜひ話を追ってほしい名作だと思う。

 

記憶というのは忘れるものだし、本人の都合の良いように変わってもいく。この、変わっていくというのが特に厄介だと思う。変わっていたこと自体に気づかないというのは怖ろしい。最近、両親を含め高齢の人たちと付き合うことが多いのだが、短期・長期記憶の忘却や認知症などを見ていると、やっぱり辛いなと思うし、それを認識させるのがとても難しい。言った言わないみたいなことにもなってしまうし、トラブルの元にもなる。

 

こういった、高齢や病気からくる記憶障害(あえて障害と書くが)の例を引くまでもなく、やはり記憶というのは信じ切ってはいけないという前提に立って生活したほうがいいなと個人的には思う。日記を書く、メモを取る、チェックリストを使う、などなど。今はテクノロジーが進化していてアナログでもデジタルでもインプットが簡単なデバイスが沢山出ているし。目標設定などにしても同様で、やりたいこと、やるべきことは脳やら魂やらに従って決めるけど、その決めたことを、ともすれば変わってしまう脳やら魂に置いておかないで、変わらないデバイスに記録しておく。