咎めるか否かの基準

最近、ファストフード店とかファミレスとかで、自分で持ってきたものを食べたり飲んだりしている人を稀に見かける。今日はマクドナルドで向かいのお姉さんがペリエを飲んでいたし、この前はタリーズで隣のお兄さんがたけのこの里を食べていた。たまたま今そういうアンテナが自分に立っているだけで、昔からけっこういたのかもしれない。よくよく考えてみれば特に禁止とか書いているわけではない。改めて考えるとなんか微妙な事柄ではある。

 


自分はやらない。ただ、別に赤の他人がやっていることを咎めることもしない。面倒なことになったら嫌だし。友人がやっていたら咎めるかもしれない。前付き合っていた子がやろうとしていたことがあり、咎めたことはある。はて、そういう基準はどこにあるんだろうとふと考えたときに、マイケル・サンデルの本を思い出した。

 


本当に昔に読んだきりなのでうろ覚えだが、『これからの正義の話をしよう』のエピソード(だったと思う)。有名なトロッコ問題で、1人が犠牲になるか5人が犠牲になるかみたいな話で、超合理的に考えれば1人が犠牲になるのを選ぶ(?)が、その1人が自分の親友だったとしたら、みたいな。その本の結びが、今の時代は合理的かとか宗教観とか価値観とかの基準に加えて、感覚的なコミュニティ(友達とか家族、知人関係)の一員であるかどうかということが基準になるみたいなことが書いてあった。こうやって書いてみたらやはりだいぶうろ覚えなのでまた読み返してみたい。

 


自分は、悪いことをしている奴が仮にいたとして、そいつが自分(おれ)の人生に関わらなければ別にいいんじゃないのという考えだ。けれども、そいつが自分の友達に害を加えようとしたら全力で止めたいと思う。逆もしかりで、良いことや利益になることだったら優先的に自分の家族や友達に伝えたいとも思う。

 


なんかでも、書いてみると別段普通のことだなと思った。