逃げるという事についてかろうじて今言えそうな事

昨日は土曜日だというのに睡眠時間も少なく、それでいて仕事場に行かなくてはならず、それほどやることはなかったものの一日拘束されて疲れたので帰宅後わりと早めに寝てしまったのだけれど、今日の朝も平日と同じような時間に起きる。今日は休みだしもっと寝てやろうと思っても、二度寝がどういうわけかうまくいかなくて、仕方ないからこの時間に起きて平日と同じように朝を過ごす。たぶん昼くらいに睡魔が来るだろうと思っている。昨日から降ったり止んだりとはっきりしない天気で、今日の朝も小雨が降っており、自転車に乗る予定が無くなった。


辛い場所や環境に追い込まれているとき、そこから逃げればいいのに、そういう論旨をよく目にする。ぼくも概ねそう思うし、それが概ね正しいふうにも思う。だけれども、逃げればいいといかにも簡単に言うけれども、じゃあどこに逃げれば良いか?そう問われれば、しっかりと、じゃああなたの場合はこれこれこうだからここに逃げればいいよ、と答えられる自信は無い。生死にかかわることについて、こうすればいいよ、そう気軽に言う事に抵抗がある。個人的な体験に基づいたアドバイスを語る事さえ、ぼくはぼくだけれど貴方は貴方だから性格も環境も何もかも違うからなぁ、と思う(残酷だが、ましてそれほど関わりあいがないような人については尚更だ)。


かろうじて今言えそうな事は、生きていればとりあえずの可能性は残っていて、可能性の数はひょっとしたら状況に拠ってはとても低かったり、選択肢の数も少なかったりして、よしんばそれを選んだとして今より良くなるかどうかはやってみなければ分からないことの方が多かったりもするけれど、生きていなければそういった全ての可能性は無くなってしまう、という事だけだ。


何かをしてはいけないんじゃないか、出来ないんじゃないか、そういった思い込みの力というものは案外強いふうにぼくは思っていて、けれども多くは単に思い込みに過ぎず、やってみれば案外あっさり出来たりするものだ。けれども、それはけっこうびっくりするくらい横合いから殴りつけられるような意識の刺激が必要で、追い込まれている状況で行動もなかなか出来る気持ちが起きないときでは、色々な可能性に目が向かないという事は往々にしてあるように思う。まして子供なら尚更だろうと思う。可能性についての視野は、色々なモノを観たり聴いたり、話したり書いたりすることで広がるということはあるだろうけれど、それすら、そうしてみようよと気軽に提案する事は個人的にはし辛い感情がある。