入力デバイスと表現の事

特に何もない休日は、午前中にはよく駅前のミスタードーナツに行くことにしていて、そこでだらだらとブログの草稿を書いたり本を読んだりする。ブログを書くときはいつもiPadBluetoothキーボードを繋げてそれで書いて居るのだけど、今日は電源をいれてもBTキーボードが反応しなかった。どうやら電池が切れてしまったらしい。仕方がないのでこの文章はiPadのソフトキーボードで入力しているのだけれど、非常に打ちにくい。タイピングしているタッチの感覚がないこと、そのことによりタイプミスがやたら多くなること、そのことによりソフトキーボードを『いちいち視認しながら』入力をしなければいけないこと、腕が疲れること。それらが非常にストレスとなる。ソフトキーボードというものは、例えるならば紙に『とっても折れやすいシャープペンの芯』で書いているようなもので、ぼくにとっては適切なツールであるとはいえない。集中力が分散されている感じがある。

思考とそのアウトプットはなるべく近しいスピードで並走しているのが望ましいと思う。たとえば会話はそれ位のスピードでできるし、ふつうのキーボードで文章を書くときも同じくらいでできる。ところがソフトキーボードになるとアウトプットがボトルネックになってしまい、たびたび思考の流れが阻害される。阻害されるだけならば良いけれど、どうも結果として表現そのものにも影響を受けている感じがある。作家の清水義範の、15年くらい前に読んだエッセイでも似たようなことを書いていた。清水義範の場合、引き合いに出していたのは紙に書く場合とキーボードに書く場合の対比を書いていて、キーボードより紙に書いた方が(慣れているツールである分)自分らしく表現できる、みたいな論旨だったと記憶している。

iPhoneフリック入力も似たような感じで、あれも思考能力と同程度のスピードで書けないから、どうも言いたい事をしっかりと書く事ができないことがままある。(ただ人によってはとんでもないスピードでフリック入力しているひとも居るから、あれは練習次第なのかと思うこともあるけれど)。iPhoneのメールもできる限りBTキーボードで書きたい。そういうチャンスはあまりないのだけれど。